昭和32年(1957)。ソ連が人工衛星スプートニク1号打ち上げをした年にオラは生まれた。
世の中はおりしも「なべ底不況」の真っ只中であったが、翌33年には「関門海底トンネル開通」、34年には貿易の自由化が開始され「岩戸景気」となり、35年には新安保条約調印があり、つ、ついにカラーテレビ放送が開始された(が、我が家は目に悪いと言われ白黒テレビのままだった)。
昭和39年(1964)。
高度成長期の象徴と言える東京オリンピック開催。
東海道新幹線開業の年に前述通り、北海道は阿寒から岩手県二戸郡一戸町小鳥谷(こずや)に「死ぬなら生まれ育った岩手で死にたい」とほざく祖母の希望を聞き入れ一家は引っ越して来た、と言うか舞い戻って来た。
しかし、岩手の方言は北海道の比ではなく日本語と英語なみに言語が違っていた。
地元の男の子たちの言葉が理解出来ないオラの事を、アイヌと呼んで生きた蛇を投げつけたり石を投げつけて来たのだ。
標準語に近いオラの喋りがよほど気に入らないみたいである。
女の子たちはそんな男の子が珍しいのか、とても優しく接してくれた。
ソレがまた地元の男の子たちの逆鱗に触れたのだろうますますイジメはエスカレートして行く一方であった。
毎日毎日泣かされて帰って来るオラに父親は情けないほど喧嘩が弱いなぁ、と嘆き、母親は喧嘩にならないように仲良くなれ、と世渡りのヘタさを嘆き、死に損ないの祖母は喧嘩に負けて帰って来るな!勝て!と叱咤する。
かくなるうえは攻撃は最大の防御!闘うしか生き残る道は残されていない!と悟り、写真の切り抜きやお絵描きが大好きな内向的な子供から暴れン坊へと変身を遂げてしまったのである。
タイマン勝負でケリは付き子分を従えるほどの暴れン坊将軍となり負けない事からチャンピオンと言う変なあだ名が付いた。
喧嘩を重ねるウチに次第に仲良くなり、いつしか方言も理解しはじめ地元に溶け込んで行った。
そして暴れン坊でお絵描き少年が描き始めた落書きが地元の子たちとのコミュニケーションツールになり始めたのである。
それがオラのまんが道の第一歩でもあった。
長い文になり疲れたので、続きはまたのココロなのだ~っ。